![]() | 価格 : 1,890円(税込み) 在庫 : 2 発売 : 2008/11/05 水村 美苗 単行本 筑摩書房 |
レビュー
真の信頼にたる成熟した洞察が呈示されている ... 2010/02/18
「知識人」といわれるひとたちの発言が、空疎なものになってひさしいが、この作品を読みながら、久しぶりに真に成熟した知性に触れることができたという感触をいだくことができた。
今日、国内では、同時代の過酷な生存条件と乖離したところに成立するアカデミアといわれる温室空間のなかで、あまりにも自慰的な知的遊戯が延々とくりひろげられている。
そこでは、「相対主義」というポストモダンのイデオロギーに浮かされた「お利口さん」たちが、些細な差異を過剰に誇張して、時代遅れの「体制批判ゲーム」に耽溺しているのである。
そこには、彼等が批判と攻撃の対象としている「体制」なるものが着々と溶解しはじめているという厳然たる現実が認識されていないために、そこで生みだされる知識は、結局のところ、同時代人にとり、全く無意味なものに終わらざるをえない。
もともとこの国には、純粋な知的探求よりも、実学を重んじる伝統があるようであるが、それにしても、今日ほどに――とりわけ大学機関に在籍する――知識人の質が劣化したのは未曾有のことではないのだろうか……。
そうした視野狭窄と比較すると、水村氏の発想は、非常に大局的なものであり、そして、また、実際的なものである。
そして、それは、また、真の意味で時代に開かれた問題意識に支えられたものであるといえるだろう。
その主調の根本にあるのは、非常にシンプルな洞察である。
それは、今、日本人の言語能力が集合規模で急激な地盤沈下を起こしているという危機的な現実に対する洞察である。
日本語という言語を国語として確立することに成功した日本人が人類に対して果たすべき責任のひとつとは、それを普遍的な価値をもつ叡智を創造するための十分な強度をもつ言語として鍛錬・継承しつづけることである――と水村氏は主張する。
こうした問題意識は、真の意味で、グローバルな視野をもちえるひとだけがいだきえる問題意識ということができるだろう。
英語という支配的な普遍言語の空間に積極的に参画しながら、同時に自己にあたえられた独自性を抱擁・継承することの責務を果たすための具体的な構想と戦略を提起しようとする、その発想は真の意味で統合的なものということができるだろう。
言語という、人間の、文化の、文明の存立基盤をいかにして維持・進化させていくかということは、もしかしたら、今日われわれが直面するあらゆる問題のなかでも、もっとも緊急・重要な問題なのかもしれない。
この作品には、そうした問題を探求するうえでの、真の信頼にたる成熟した洞察が呈示されている。
これは評論でなく、冗長なお話 ... 2010/01/22
読んだが、著者の主張がどこにあるか分からず、もっと簡潔に書いてほしかった。
これはもしかしたら「小説」なのだろうか?
しかも、冗長で退屈なそれ。
時間をもてあます方は読んでみたらいいだろう。
問題提起としては非常に重要 ... 2010/01/19
著者の経験をベースとした筆致は確かに主観的で感情に流れている部分も散見されるが、その意図する所には共感を覚える。
google.co.jp(日本語版)とgoogle.com(英語版)でヒットするウェブサイトの数は数倍違い、ネット上においては英語が普遍語として今後益々その地位を確固たるものにしていくことは疑いようがない。
日本語における表現は英語とは異なるニュアンスを持っており、表現の多様性は日本語圏ならではのものだと考えられる。その中で、モバイルメールやツイッターに代表される短文でのコミュニケーションが流通してくる中で、(それも当然日本語文化なのであるが)それでは「日本語とは一体何なのだろうか」と、もっと真剣に考えることがあって良いと思う。
そういった状況の中で、ある意味でアンチテーゼとしての漱石や古典が教育現場で登場することで、日本語の多様性を考える機会が幅広くもたらされるというメリットも大きいと思われる。
※当然、教育現場を契機として日本文学のコアに興味を持っていく人材も出てくるであろう。
日本語は時代に即して新たな表現を模索していくべきだが、問題提起としては日本人自体が持ちつづけるべきテーマではないだろうか。
文部省の国語教育政策の誤りを指摘 ... 2010/01/18
すでに多くの方がレビューしているので,この本の中にある重要な指摘と考えた点についてのみ,述べようと思う。
この本の317ページに,こうある。「日本で,戦後から歳月を経るうちに,どこか「お馬鹿さんのクラス」に似た国語教育を,次第に,すべての国民に与えるようになっていたのである。」つまり,文部省の国語教育政策の誤りを指摘しているのだ。この点で,評価できると思う。
実は,国語教育の実態の一例として,忘れられない個人的体験がある。ある日,小学4年生の姪の国語教科書を読んでみた。そこには,消しゴムを例に出して「レトリック」を説明するおそろしくつまらない文章があった。読んでみて,個人的には,程度の低い読まない方がいいほどの文章との印象をもった。いったいだれがこんな文章を,国語の教科書に載せることを選んだのかと,教科書を読ませられる子どもの身になって,怒りさえ覚えた。
著者は,「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」(317ページ)と主張している。わたしは,この意見に賛成だ。文学(通常,日本語による芸術作品をさす)の分野のみならず,社会や科学分野の随筆など,違う分野の優れた作品も厳選して取り上げるべきだろう。 高度な作品は難しくて理解できないのではないか,この程度の理解しやすいものでなどという発想で,作品のレベルのいい加減なものを安易に教科書に掲載するべきではない。日本の文化が生み出した,いずれも最高峰のすばらしい作品を厳選して選ぶべきだと思う。
本書は,このような,日本語による文化の継承を視野に入れた上での根本的な諸問題を検討している点で,触発されたり,問題意識を刺激されたりする内容を多く含んでいる。
現代日本語が生まれた経緯を考えさせられた ... 2010/01/06
自分は文学という学問には門外漢なので、日本語が国語となった経緯の説明で使われている本書の議論が一般性を持つものなのか分からない。しかし、本書で触れられている、普遍語の存在下で現地語である日本語が国語に至る経緯を、欧米の言語と比較しながら説明するくだりは非常に納得がいくものだった。また、国語形成において明治の先人たちが翻訳活動を通じて日本語で考えることができるまでに言語の完成度を高め、そうした知的活動が現在の日本の大学を形成する土台にもなっている事もよく分かった。また、言語が亡びる第一段階としてその言語で「読まなくなること」があげられているが、英語がインターネット時代の普遍語となったときに英語で情報収集することが多くなる事は必然と感じられた。
それ以降の筆者の展開で考えさせられた点が2つ。まず、母語が日本語である場合、英語が普遍語になったとしても叡智のある(文学)人が必ずしも英語で表現するのだろうか。確かに明治には西洋の新しい知見を日本語に取り込んで近代文学が生まれたが、新たな知見の日本語への取り込みがなくなり英語だけで簡潔している場合は表現可能な文学に制約は発生しそうである。また、日本の国語教育として近代文学を読むことを訴えているが、これには賛成したい。日本に平安時代から残されている文学・聖典の解釈等は日本人の財産であり、受験を抜きにしてそれらを楽しめるようになることが、義務教育の国語における到達地点であってもよいと思う。
